自らの命を絶つ自殺
その言葉の通り
自らを殺すこと
痛ましい自殺が
日々新聞を飾ります
その年齢は
どんどん低年齢化しています
今年に入って自殺の記事は全て中学〜高校生
今年の8月に
電車へ身を投じて亡くなった
中学2年生の件は、世間を別の意味でも賑わせました
自殺した女の子の数日前に撮られたショットが
市のコンクールで取り上げられ賞をとったからです。
しかし数日後自殺した女の子の被写体ということを
市と主催者が知り、賞を取り下げたという
出来事が加わったことで
この女の子の自殺は世間を炎上させることとなりました
どんなことも
必然
この出来事は
この女の子の自殺を
「いじめ」という凶器で
殺人を犯した加害者がいることを
知らしめるニュースでした。
そして
そのことは
もっと世間は真剣に考えないといけないと
いわんとした出来事だと感じました。
イエスキリストは言います。
ターゲットにしている子が
いじめる要因のあること(罪)を犯しているのであれば、
いじめをすることはいけなことではない。
しかし
それを罰する人は
ほんのわずかでも罪を犯したことがあるのであれば(人をいじめる行為も罪、嘘をつくことも罪、約束を破るのも罪、見て見ぬ振りするのも罪、心の中での心無い感情も罪・・・etc.)
絶対罰して(いじめて)はならぬ
とはいえ、
自らの命を殺す行為は
最大の罪と言われています。
生きることには
全て意味があって生かされています。
意味があって生かされている中で
生きることを自ら断つことは
その意味を放棄することになります。
生きることは苦行と言われています。
それも一人一人、与えられている苦行は違いますから
そうなると、他人がとても幸福に見えたり
他人が羨ましくなったり
自分がみじめになったりすることも
少なからず起こります
しかしその多くは
目の前(外側)にある幻想なのです
本来は
内側にある、
それぞれの与えられている課題があって
見えないけれども、
人には知りえない苦行を与えられていて
それをただこなすことが生きることなんですね。
どんなことにも真摯に受け止め(受容)
どんなことにも受け入れたことを認め同調し(応諾)
どんなことにも一生懸命向き合えることは
与えられたことを(生きる課題)
自分の力で昇華したことになると感じます。
逃げないで
向き合って
それを受け入れ
それを感じ
それが嫌だと思わず
淡々と
粛々と
こなしていけることこそ
生きることなんだと感じます。
だれもが
幸せになりたいし
だれもが
苦労したくありません
しかし
楽しての幸せはありえないのです。
苦しいことに
苦しいとしか思うのではなく
苦しいことは起きているけど
その中でほんのわずかでも幸せもある
人は
良いこと、
良い思い、
良い結果、
良い行為
のことはとても感情として残りますが、
悪いことには
すぐ愚痴をこぼし、
自分は悲劇のヒロイン・ヒーローぶります。
でも
実は
その分幸せも得ているんです(忘れているだけで)
辛いことに
心を奪われないで
幸せなことに
心を奪われる人になりたいですね❤️
命は
与えられた課題を昇華させた時
自然に天に召されるものであることを
子どもたちにつたえていきたいと思います。