あなたは人を信じることができていますか?
あなたは家族(子どもや配偶者)を信じることができていますか?
そして、何よりも自分自身を信じることができていますか?
人間は生きていく中で、
他の動物とは違って優れたコミュニケーション能力が備わっていますね。
進化を遂げていくうちに言語という手段を使うことができるようになった人間独自のコミュニケーション能力ですね!
その言語という手段は
良くも悪くも、人の心に大きく影響を及ぼします。
一度口に出してしまうと、その一言で一生亀裂が入るほどの影響を及ぼすことも・・・。
逆に、最高の幸せを感じることも・・・。
人は大きく分けて
性善説タイプの人と
性悪説タイプの人にわけられのではと感じています。
kaoring-3は、思いきり前者の性善説派タイプでして、
目の前に現れる人をまず「良い人」としてみていきます。
逆に、慎重なタイプの方は、目の前に現れた人を「悪い人」と最初は見て
そこから探って、その人の本質を見極めるという人もいますね。
どちらがいいとは言えませんが、
赤ちゃんを見たときに、性悪な赤ちゃんを見たことはないですよね?!
ということは、元々はやはり誰もが良い人なのではと思うわけです。
さて、今日は「信じる」ということにフォーカスしたいと思います。
人は、自分に尽くしてくれる人や、害を及ぼさない限りは、相手のことを信じますね。
ところが、一度でも害を及ぼす行為をされたり、言われたり、嘘をつかれたりすると
一転して相手のことを信じられなくなりがちです。
そのような行為をされたり、感じたり、受けても信じ続けることってできるのでしょうか?
どこにゴールがあるかもわからない道を走るとしましょう。
それでも必ずゴールはあると信じて走り続けることが、あなたはできますか?
「信じる」心ってそういうことではないかと思います。
結果があるから、
結果を想定するから、
結果を期待するから、
信じるのではなく、ただただひたむきにこの漢字の通り
人+言(誠・あかし・誠実の意)であり、そこに見返りを考えずに思う心。
自分のこと
家族(我が子・兄弟・親・配偶者)のこと
他人のこと
同僚のこと
部下のこと
上司のこと
友達のこと
自分を取り巻く全ての人たちのことをどこまで信じているか、少し考えてみたいですね。
思うわけです。
人を信じることができる人は、間違いなく自分を信じることができている人だと。
たとえどんな虐待を受けて育ってもそれを恨まず愛されてこの世に誕生したと信じるか、
親自身の生活が困難になり、親に育ててもらえず、養護施設で育ってもそれを恨まず、そんな自分でもこうなれたということを見せる大人になるも、
それは結果を考えず、ただ自分を信じることができているからだと思うわけです。
こういう人は、他人のことも心から信じますね。
娘の担任の先生が、
娘の成績のシビアな部分には何も触れず、
どこがどんな風に頑張っているかを探して、やる気を上げ、
下がっているのは何が原因でどうすれば解決できるかを指導し、
あくまでも彼女が追い続けている夢の実現を信じている先生を垣間見たとき、
これが「信じる」ということだと感じるわけです。
「信じる」こころ・・・
改めて、日々の生活の中で自分を省みながら、
まずは家族や自分を信じて過ごしているかを感じてみたいですね❤️